2017/12/18

現代アートは福島を語れるか?

現代アートのパフォーマンサーとして活動している前川加奈さんのお話です。福島を表現できるようになったのは、20キロ圏内に初めて入ってからだそうです。
もちろん、現代アートでは食べられないので、バイト、バイト、バイトの毎日です。青春してます。ガンバレ!!!!



2017/11/26

鎌倉から移住して南相馬小高区に本屋を開店を目指す

作家の柳美里さんは、旦那さんと息子さんの3人で、鎌倉から移住。若いときの放浪時代からの経験で、良い町には、良い本屋さんが在った経験から南相馬小高区で本屋さんの開業を目指します。

柳美里のふたりとひとり→南相馬ひばりFM87.0MH

福島県立小高産業技術高等学校校歌→こちら


2017/11/11

民間のボランティアセンターを立ち上げてしまったボランティアの鬼?松本さん。

通常はボランティアセンターは、お役所がやるのですが、民間のボランティアセンターを立ち上げてしまったボランティアの鬼?松本さんの興味津々なお話です。

→南相馬ボランティア活動センター



2017/10/14

高橋亨平さんを偲んで

9月24日が誕生日だった南相馬市の原町中央産婦人科医院長の高橋亨平さんは、本間にとって特別な存在です。彼は本間が、初めてインタビューをした人であり、癌と闘いながらも産婦人科医として診療と除染活動を続けた人でもありました。(2013年1月22日没)
この時期になると彼のことを思い出して、矜持を正します。
ぜひ、彼のメッセージを再度、ご覧ください。

→南相馬除染研究所


2017/10/02

福島の酒

おいしくて安全な福島県の酒を紹介するのは、ご自身も酒好き、おいしいもの大好きのフリーライター林 智裕さんです。ところで、福島のお酒は4年連続で新酒鑑評会金賞をとったのは知っていましたか?

林 智裕→こちら


2017/09/06

オーダーメイドの旅づくり作りにこだわるリボーンの壹岐さん

旅行会社リボーンの壱岐さんはテンプラ廃油から作ったバイオ燃料で走るバスで、東北にボランティアツアーに出かけたり、『環境』と新たに『健康』をテーマに、ココロとカラダが活き活きとなる旅をプロデュースしています。

→(有)リボーンのホームページ





2017/08/26

映画 飯館村の母ちゃんたちをつくった古居みずえさん

古居みずえさんは、37歳の時、原因不明の関節リュウマチに襲われ、1ヶ月後には歩行器なしで歩けなくなりました。諦めかけた時、投薬していた薬が奇跡的に効いて、「一度きりの人生。何かを表現したい」と、それまでの平凡なOL生活から女性ジャーナリストとして人生を大きくシフトさせ、戦火のパレスチナで取材を始めたそうです。

古居みずえさんのホームページ

→映画ガーダ パレスチナの詩





2017/08/08

気仙沼で、早い時期から子供たちの遊び場作りをしています。

全ての大人にとってかならず共通すること。それは子ども時代です。それは宝物です。子どもの頃に豊かな環境を過ごすことで、身体や心はとても豊かに発達をします。東北に移住した人たちを中心に、子供たちの遊び場作りを主催する団体、プレーワーカーズを立ち上げた神林さん。現場の生の声を聞きました。

プレーワーカーズ

日本冒険遊び場づくり協会


2017/07/23

ITで人を育てて仕事を地方で受ける!

人を育てる仕事がやりたくて、東京での仕事を辞めて、南相馬に移住した森山君(結構イケメン)です。IT、デザインの技術を若い人たちに伝え、東京から仕事をとり、独立できる人材に育てることが夢です。彼の野望を是非聞いてやってください。



2017/06/12

復興バー@銀座、今年も銀座に出現!!

さまざまな繋がりを生み出した『復興バー@銀座』が今年も銀座に出現します。 おもてなしは、石巻や被災地の方々をはじめ、復興に携わる様々な顔ぶれが1日マスターです。 石巻から銀座へ。被災地だからこそ生まれた素敵なアイデア、素晴らしい人に出会い、「未来」について語り合ってください。

復興バー
日替わり店長リスト
石巻2.0



2017/06/05

災害ボランティアから市民運動家へ 南相馬の舞台裏から その1

震災前はトラックドライバーだった戸田[軍曹]さんは、ひょんな事から、災害ボランティアから市民運動家へ変貌して行きます。
その過程は、南相馬の市民運動の歴史そのものでした。その歴史の舞台裏から、熱く語ってくれます。

桜援隊
南相馬除染研究所
まちなか広場
手のひらを太陽に!大作戦!!
南相馬ダイアログフェスティバル
みんな共和国
高見公園大線量測定大会
手のひらを太陽に!!大作戦
南相馬お雑煮フェスティバル
南相馬高見公園じゃぶじゃぶ池


災害ボランティアから市民運動家へ 南相馬の舞台裏から その2

震災前はトラックドライバーだった戸田[軍曹]さんは、ひょんな事から、災害ボランティアから市民運動家へ変貌して行きます。
その過程は、南相馬の市民運動の歴史そのものでした。その歴史の舞台裏から、熱く語ってくれます。

桜援隊
南相馬除染研究所
まちなか広場
手のひらを太陽に!大作戦!!
南相馬ダイアログフェスティバル
みんな共和国
高見公園大線量測定大会
手のひらを太陽に!!大作戦
南相馬お雑煮フェスティバル
南相馬高見公園じゃぶじゃぶ池




2017/05/27

キッチンカー(痛車)で自立&支援

南相馬のA子さんは、野馬追いの武者キャラクターでペィンティングした、キッチンカーで、自立&支援の第1歩を踏み出しました。その裏では色々な人たちの、協働作業がありました。



2017/05/15

私の被災体験-1

なかなか、被災体験を大勢の人に語る事が出来る方は、あまりいません。ましては、カメラの前で・・・。
3.11から5年、ぼちぼち、語り部が増えてきました。「万里の長城」と呼ばれる長大な防潮堤を築いた岩手県田老の大棒さんが被災体験を語ります。



私の被災体験-2

なかなか、被災体験を大勢の人に語る事が出来る方は、あまりいません。ましては、カメラの前で・・・。
3.11から5年、ぼちぼち、語り部が増えてきました。「万里の長城」と呼ばれる長大な防潮堤を築いた岩手県田老の大棒さんが被災体験を語ります。



私の被災体験-3

なかなか、被災体験を大勢の人に語る事が出来る方は、あまりいません。ましては、カメラの前で・・・。
3.11から5年、ぼちぼち、語り部が増えてきました。「万里の長城」と呼ばれる長大な防潮堤を築いた岩手県田老の大棒さんが被災体験を語ります。



2017/05/05

福島第一原発視察記2016改訂版

なにか漠然としている恐怖を(放射能の元凶-福島第一原発)を実際にこの目で確かめに行ってきました。

2016年に一度掲載したのですが、分かりにくい事と、内容に変更があったので、再度、編集し直しました。


2017/04/27

山林の放射能測定をするマルチコプター・ドローン

福島原発事故で、除染がほとんど進んでいないのは山林です。その基礎データ[放射線汚染度]を測定をする低価格マルチコプター・ドローンを開発している会社があります。
WAYPOINTの設定により同一地点を飛行することが可能となる為、除染前、除染後の比較等が簡易に出来るようになるそうです。


(株)FUIJapan


2017/04/16

東京電力 福島復興本社のお仕事とは?

東京電力には福島復興本社という会社があります。あまり普通の人たちには知られていない会社ですが、原発被害に遭われた人たちには、いろんな意味で良く知られています。

そんな福島復興本社のお仕事を分かりやすく、代表の石崎さんが語ってくれます。

福島復興本社


2017/03/30

’70年から47年間、反戦争・反原発で座り込みを続けています。

斉藤さんは’70年から反戦争・反原発で、国会前で座り込みを続けています。なんと47年間ですよ!!自分の人生と重ね合わせてみたら、言葉も出なくなりました。
彼女を、長年、座り込みにかき立てた情熱とは?




2017/03/08

東北を、日本を、花火で、元気に!ライトアップニッポン!!

「東北を、日本を、花火で、元気に。」 をキーメッセージに、
東北の太平洋沿岸複数個所で、「追悼」と「復興」の祈りを込めて、一斉に花火を打ち上げているライトアップニッポンの代表 高田 佳岳さんが熱く語ってくれます。

ライトアップニッポンホームページ:ココ

映画:ココ



2017/02/24

災害ボランティアから、とうとう、ご当地ヒーローまで立ち上げました。

震災直後に初めて入った南相馬。子供達に手洗いの仕方を伝えるために、人気のあるヒーローを0から立ち上げました。今では、東京から南相馬に移住して、100%、奮闘中です。






2017/02/15

福島原発22キロ 高野病院奮戦記 がんばってるね!じむちょう!!ー1

福島県広野町にある高野病院。 最も深刻なレベル7と評価された東京電力福島第一原発の事故後、原発30キロ圏内の病院では唯一、患者を受け入れ続け、地域医療の拠点としての役割を担ってきました。 事故による多忙と混乱、退避せずの判断、入院患者移送の苦労、看護師不足の悩み、行政・東電との丁々発止などを、当時のブログやメールを交え、ユーモアを失わずに奮闘してきた女性事務長からの聞き語りです。

井上能行さんの本「福島原発22キロ 高野病院奮戦記 がんばってるね!じむちょう!!」



福島原発22キロ 高野病院奮戦記 がんばってるね!じむちょう!!ー2

福島県広野町にある高野病院。 最も深刻なレベル7と評価された東京電力福島第一原発の事故後、原発30キロ圏内の病院では唯一、患者を受け入れ続け、地域医療の拠点としての役割を担ってきました。 事故による多忙と混乱、退避せずの判断、入院患者移送の苦労、看護師不足の悩み、行政・東電との丁々発止などを、当時のブログやメールを交え、ユーモアを失わずに奮闘してきた女性事務長からの聞き語りです。

井上能行さんの本「福島原発22キロ 高野病院奮戦記 がんばってるね!じむちょう!!」






2017/02/05

高野病院(双葉郡)にみる福島地域医療の問題点

高野病院は、福島県広野町にある内科64床、精神科53床の病院です。東京電力福島第一原子力発電所から30km圏内にあるために、2011年の原発事故後には緊急時避難準備区域に指定され、患者さんたちには避難指示が出されました。しかし「重症の患者を避難させたのならば、命にかかわるような事態になる」という当時の高野英男院長の判断で、そこに留まって高野病院の皆さまは診療を継続されました。

その高野英男先生が昨年末に火災によって亡くなられました。81歳でした。ご高齢にもかかわらず、震災後には、病棟・外来に加えて多数の当直をこなす、ただひたすらに地域の患者さんたちのために働かれた毎日でした。

院長が亡くなられた後、高野病院には常勤医がいなくなりました。多数の非常勤の医師、ボランティアの医師で診療(私もほんの一部ですが、精神科の診療のお手伝いをさせていただいています)が何とか維持されている状況です。しかし、無為に過ごせば病院は無くなってしまうおそれが強いと言わざるをえません。何としても、院長職をこなせる常勤医を確保することが必要ですが、その点については先行きが不透明なままです。

そんな高野病院をスポットに当て、医療の問題点を語っていただきました。

医療ガバナンス研究所→ココ